40年前の会計事務所

私が、父の事務所に入った頃は、事務員の数も、まだ多かった。今でも、使える机と椅子のある席が、6席ある。

当時は、7席。職員数は、私を含めて正社員4名であった。

手書きで、振替伝票や元帳を作成していたので、今と比べると、数倍時間がかかっていた。

トランジスタ式の電気式の計算機が、一台。不要になった机の上に鎮座していた。

これは、かけ算や割り算の検算用で、たまにしか使われなかった。

父は、ソロバンとペンと簿記の知識があれば、一生食いっぱぐれがないと、繰り返し言っていた。

電卓を経て、計算はエクセルという時代は、当時は、予見できなかった。

野村コンピュータシステム(のちの野村総研)が、電子計算機の分散利用サービスを提供していて、私が入ってから、利用が進んだ。

私は、ソロバンが苦手だったので、まだ、端末の入力の方が良かったことにもよる。

データカセットをセンターに持って行って、出来た試算表や元帳などをもらってくるのである。

端末も、最後には、電話回線を使った音響通信でデータを送れるようになった。

そうこうするうちに、PTOSと言うOSを搭載したNECのオフコンに変わった。

当時のプログラムは、コボルで、それが、最終的にはIBMタイプのパソコンにブラットフォームを乗せた上で、動いていた。

DOS/Vパソコンが、MSーDOSで動くようになってから、汎用性のある会計ソフトも出来て来た。

ワープロ専用機が使われたのは、1980年代だけであった。

現時点では、エッサムの会計ソフトと、NTTデータの達人シリーズを使用している。

数年前から、人手不足になって来ていて、仕事が忙しくなっていたが、長年、大変お世話になった顧問先の方が、高齢化と後継者不足で会社を閉じられるような事態が相次いで、最近では、たとえば、会社設立業務はなくなり、代わりに、会社の解散や清算業務が増えた。

いまでは、会社の清算業務の方が経験があるようになった。

事業再生は、売却できる資産とかがなければ、実際には、手間がかかるばかりで、なかなか難しい。

この40年ほどの間に、会計事務所も様変わりしてしまった。

創業したばかりの人やこれから創業しようという人の支援業務も、時々やってきたが、一番大きいのは、資金不足で、よほどしっかりした事業でない限り、困難であった。

昨今の創業は、昔は、一台の機械を買い、貸し工場で利益を上げていく中で、収益を上げるという分かりやすいものであったのに対し、サービス業だと、本人の能力にも依存するため、なかなか、厳しい状況にあると思います。

なので、原則として、よほど、しっかりした事業プランを持っておられる方以外は、創業支援は、やらないことにしています。

事務所の成り立ちについて

父は、大正時代も終わる頃、滋賀県の片田舎で生まれ、農作業のかたわら、家の商売も手伝っていたが、祖父が若くして亡くなったこともあり、当時の流行りでもあった立身出世を願い、上京した。銀行を希望していたが、片親であったこともあり、税務署に職を得た。

税務官吏として働いていたが、終戦になる一年余り前に、徴兵され、ボルネオ島に連れて行かれ、バリックパパンの市街警戒やオランダ人捕虜の見張りの業務に従事した。

戦局おもわしくなく、ジャングルへ転戦する中、幹部候補生試験に合格し、10数十名が帰還し、横須賀の海軍の訓練所で、訓練を受けた。

旧制中学を出ているものは、工兵として訓練され、位も上であったそうである。

舞鶴で終戦を迎え、田舎に帰った後、復職し、その後、希望して大阪国税局管内へ異動した。

私が、小学校3年生の頃に、父は思い立ち年金受給資格を得て、税理士になった。

父は、税務調査の経験から、世の中には、とんでもない金持ちがいて、広い家に住み、食料品まで溜め込んでいるのを知って、金持ちから、商売を通じて、お金を移転させることは、悪いことではなく、むしろ、世の中が平等になるには、必然的なことだと考えた。

私が、小学校3年生の時に、東京オリンピックが開催され、中学3年生の時に、大阪万博が開かれた。

戦後稀に見る好景気が続いた。

父は、大阪の城東区に事務所を構えた。京阪沿線に住んでいたこともあるが、家賃とかが比較的安いので決めたと言っていた。

最初の事務所は、奥が畳敷きの部屋になっている木造の建物であった。

忙しい時は、そこで寝泊まりして過ごした。

その後、より京橋駅に近いところに、村上ビル(現:アリタビル)が立ったので、そちらに移った。

なので、もうこのビルは、50年近く経ったことになっている。

この地に、私の事務所がある理由は、父の跡を継いだことによる。

ちなみに、事務所の看板は、最初に作って以来修理もしていないので、年季が入っているだけに、ボロボロになっている。

看板を、せめて塗り替えてはどうかと、父に言ったこともあるが、看板を見てやってくる客は、飛び込みなので、良い客であることはないと言って、修理をしなかった。