事務所の成り立ちについて

父は、大正時代も終わる頃、滋賀県の片田舎で生まれ、農作業のかたわら、家の商売も手伝っていたが、祖父が若くして亡くなったこともあり、当時の流行りでもあった立身出世を願い、上京した。銀行を希望していたが、片親であったこともあり、税務署に職を得た。

税務官吏として働いていたが、終戦になる一年余り前に、徴兵され、ボルネオ島に連れて行かれ、バリックパパンの市街警戒やオランダ人捕虜の見張りの業務に従事した。

戦局おもわしくなく、ジャングルへ転戦する中、幹部候補生試験に合格し、10数十名が帰還し、横須賀の海軍の訓練所で、訓練を受けた。

旧制中学を出ているものは、工兵として訓練され、位も上であったそうである。

舞鶴で終戦を迎え、田舎に帰った後、復職し、その後、希望して大阪国税局管内へ異動した。

私が、小学校3年生の頃に、父は思い立ち年金受給資格を得て、税理士になった。

父は、税務調査の経験から、世の中には、とんでもない金持ちがいて、広い家に住み、食料品まで溜め込んでいるのを知って、金持ちから、商売を通じて、お金を移転させることは、悪いことではなく、むしろ、世の中が平等になるには、必然的なことだと考えた。

私が、小学校3年生の時に、東京オリンピックが開催され、中学3年生の時に、大阪万博が開かれた。

戦後稀に見る好景気が続いた。

父は、大阪の城東区に事務所を構えた。京阪沿線に住んでいたこともあるが、家賃とかが比較的安いので決めたと言っていた。

最初の事務所は、奥が畳敷きの部屋になっている木造の建物であった。

忙しい時は、そこで寝泊まりして過ごした。

その後、より京橋駅に近いところに、村上ビル(現:アリタビル)が立ったので、そちらに移った。

なので、もうこのビルは、50年近く経ったことになっている。

この地に、私の事務所がある理由は、父の跡を継いだことによる。

ちなみに、事務所の看板は、最初に作って以来修理もしていないので、年季が入っているだけに、ボロボロになっている。

看板を、せめて塗り替えてはどうかと、父に言ったこともあるが、看板を見てやってくる客は、飛び込みなので、良い客であることはないと言って、修理をしなかった。